vol.128 この回は結構大事2
・真我を望めばいける存在は実は多い?
・エゴの死
・啐啄(そったく)
でね、この今の世界、我々の住んでる3.28次元、そこの世界は4次元近く、4次元にはまだなってないんだけど、 3.9次元とか、3.95次元とかなるんですけども。そこ行ったらね、 完全覚醒を求める人はほぼいなくなります。
この世界だから、前もどっかに色々書いていたんですけど、この世界だから求めるんですね。
この世界にいると、絶望が2種類あるんですよ。
もう本当にエネルギーのない人は、もうこの世界に嫌になっちゃって、自殺するとか、どっか山入るとか、なんかやるわけですよ。
ねえ、よくあるでしょ、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とか。あんなの私できないですよ。でも、いろんな修行したりとか、あるいは、なんだろう、もう天才的なアスリートとかいるじゃないですか。
すごい。天才的な音楽ミュージシャンもいるし、いろんな人いるじゃないですか。でも、その人たちはすごい 、なんつうの、あれ、持ってるんですよ。能力っていうか、ポテンシャル持ってるわけですよね。
真我を望めば結構行けちゃうんですよ。だけど望まないんすよ。
千日回峰行をやってても、真我望んでないから、まあ不思議なことは身につく。ある程度。で満足感も得られる。達成感も得られる。でも、完全覚醒をしない。なんでかっつうと、完全覚醒を知らないし、望まないから。
この地上を離れたいと思わないから、この地上に絶望しないから。
自分の生きざまに絶望しますよ、それは。とんでもない生き方してたと。みんなを苦しめたとか、あるいは、こんな世界嫌だとか。こんな世界嫌だとは思うんだけども、 なんて言うんだろうね、本当の絶望には至らないんですよ。真我に行こうと思ったら、本当の絶望を味わわないと、にならないと。なんていうんだ、「もう全部いや!」ってなんないとダメですよね。それでもって、エネルギーはある程度ないと、 ある程度っていうか、かなりないとダメですね。そこは難しいんですよね。
だから、 アキラさんおっしゃってましたよね。
『最終的に真我となった時、覚者は絶望しているのでしょうか』っていうのは。
だから、全然絶望とは関係ないと言いますよね。
その一歩手前のエゴが絶望して、エゴがもう嫌だって、エゴが死ぬわけですよ。エゴが死ぬと同時に、今度は宇宙が、宇宙?宇宙じゃないな。真我が。宇宙だな。
ん?
宇宙が吐き出すって、そのエゴっていうか、その存在を。そのエゴが絶望した存在を、 宇宙を抱えてられなくて、宇宙のシステムから吐き出すそうです。
あーそうなの。
そしたら、その、その両方、なんて言うんだあれは、卵が、ほら、内からひよこが割るでしょ。で、外から親がつつくでしょ。
なんとかいうよね、あれ、啐啄?(そったく)なんつうだろう。なんとかいう言葉あるんですよ。あれと一緒。
(啐啄:啐は鶏卵が孵化しようとするとき雛が殻を内からつつくこと、啄は母鶏がそれに応じて外から殻をつつくことの意。禅宗で、機を得て学人と師家との両者の心が統合することに例える)
だから、両方がうまくタイミングがピタッと合う時があるんだって。その時が機が熟した時で、完全覚醒するんですね。で、それも結構微妙みたいよ。
だから完全覚醒の道にあるって僕たまに言うじゃないですか。例えばEOをだったら、EO完全覚醒してまだしてないんですけども、道にあるんですよ。
だから彼の書いてる文章には味わいがあるでしょ。あんま僕はもう関わり合いたくない、 EOと関わり合いたくなかったんで、EOに、EOが書く本に集まってくる人たちってのはやっぱ頭おかしいんですよ、ちょっと。EO自体がそうだから。EOは高みに行ってるんだけども。EOの集合魂ってのは…なんて言うんだ。書いといたでしょ。
もうあんまこれ言いたくねえから。EOの悪口は言いたくないよね、あんまり。そこを探して読んでください。
ということで、完全覚醒ってのはすごく難しいと。でも可能性はあるということですね。今日は以上。ここまで。